贈り物手帖
坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛など幕末の志士たちに大きな影響を与え、敵味方問わずに一目置かれていたのが勝海舟。 そんな勝海舟と坂本龍馬は師弟の絆で結ばれていました。坂本龍馬はこの勝海舟がいなければ、歴史に名前を刻むことはなかったでしょう。 坂本龍馬と西郷隆盛の出会いも勝海舟のはからいによるものでした。 日本海軍の礎を築く勝海舟は、軍艦咸臨丸に乗船し渡米をした後に軍艦奉行の役職に就きます。 ここ大分県中津市にゆかりのある福沢諭吉も咸臨丸に乗船していました。
勝海舟と坂本龍馬の出会いが日本の歴史を大きく動かしたと言っても過言ではありません。 維新まで3年と迫る1864年、そんな二人が大分を訪れています。 オランダ、アメリカ、イギリス、フランスの下関砲撃に対する交渉のため、幕府の代表として勝海舟は坂本龍馬を伴に神戸を出港しますが、船のトラブルにより長崎へ陸路を進むことになります。 記録によれば2月15日5時に名前の詩のアトリエがある大分県臼杵市佐志生からほど近い、関サバ・関アジで有名な大分県大分市佐賀関に上陸します。 佐賀関では徳応寺に止宿。佐賀関街道を通り、大分市内の2箇所で止宿。熊本経由で長崎へ向かいました。 帰路の際も4月10日に止宿しています。
坂本龍馬と勝海舟が歩いた門前の道は、現在では「関あじ 関さば通り」と名付けられています。 当時の第10代住職であった東光龍潭による「日本人物誌」には、同行者の名前や、彼らが乗ってきた船などの詳細な記録が近年発見されました。 しかしながら二人が関あじ、関さばを食べたかどうかの記録は残念ながら残っていません。
昨年6月10日に徳応寺を訪れて来ましたが、残念ながらご住職にお会いすることは出来ませんでした。 早朝の勤行の後の7時頃ならいっらしゃるとのことですが、一日中お参りや出張に出ておられるとのこと。 本堂も修復中でしたが、境内からの海の眺めは感慨深いものでした。 そんな二人に想いを馳せながら撮影した、「坂本龍馬」に贈る「名前の詩」です。