贈り物手帖

第1回:臼杵の南蛮文化「第1章 臼杵のノビシャドと100人スコーレ」

キリシタン大名であった大友宗麟が、崖と海に囲まれた臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に居城を移したのは30歳を過ぎてからのことでした。現在は陸続きですが、明治時代までは島としての城郭でした。

臼杵の城下町は、丹生島のお城と、カトリック修道院や教会が並び立つキリスト教文化地区に挟まれて形成されていました。日本の城下町の中心はもちろん領主が構える「城」。周辺の寺や神社も、領主の都市計画や風水、暦等によって配置されていました。一方、欧米では教会が中心の街づくりとなっており、城の配置においても、教会の許可が必要とされるケースがほとんどでした。

臼杵の街づくりは、和洋折衷。当時では非常に珍しいケースだったようです。キリスト教が許され、布教と貿易が共に盛んになり、ノビシャド(ポルトガル語でカトリック教会の修練院)までもが、1580年に建てられました。当時は、各地から宣教師や信者が移住し、臼杵の歴史の中でも最も賑やかな時期だったようです。

現在、臼杵市の中心である八町大路には、そんなキリスト教や南蛮文化を今に伝える「サーラ・デ・うすき」という施設があります。「サーラ」は、ポルトガル語で「居間」。四季折々の野菜や魚などの郷土料理も味わえるスポットで、当時のにぎわいに近づようと、100人スコーレというイベントが6月11日サーラ・デ・うすきにて開催されました。

名前の詩干支.comの毛利拓斗も頑張っています。100人スコーレに参加しました!